向日葵の彩度

暴力のブログ

haruka nakamura PIANO ENSEMBLEのコンサートに行ってきた。祈りの話。

タイトルの通り、先日(21日)haruka nakamura PIANO ENSEMBLEのコンサートに行ってきた。

場所は東京カテドラル聖マリア大聖堂。凄まじい名前だとは思う。

 

今回のコンサートはharuka nakamura PIANO ENSEMBLEとしての活動を締めくくるものだった。けれども、コンサートの感想や、haruka nakamuraのアーティストとしての歴史をこの記事で書くつもりはない。音楽の感想文やアーティストの評論より炎上しやすいものは、野球と政治と宗教とセクシャリティと特撮と創作精神論と年収と体育会と広告代理店と田舎の話を除いてはそうそうないだろうし、何よりharuka nakamuraは素面で語るにはあまりにも気恥ずかしぎる。インタビューやライナーノーツで頻出する語彙が「光」「闇」「祈り」と言えば、こう、正気のまま語ることの難しさを察していただけると思う。

 

で、何の話をするかといえば、タイトルにある通り、祈りの話になる。具体的には教会の長椅子の話だ。

 

教会には椅子がある。教会は人が集まって話を聞いたり、祈りを捧げる場所であるから、座るための機能を持っている方が都合がいいのだろう。人間が長時間何かと向き合う空間は、座れた方がいい。東京カテドラル聖マリア大聖堂もご多分に洩れず、椅子がある。

映画館で映画を観るたびに、荷物の置き場に迷う人は、少なからずいると思う。椅子と椅子の間の狭いスペースを通って自分の席へ向かう人のために、どう脚や荷物を避ければお互いにとって心地よいのかわからない人も、少なからずいると思う。

複数の椅子が複数の列を作っている場では、どうしてもこのような問題がつきまとう。

 

コンサート会場になった聖マリア大聖堂も、人間が長時間何かと向き合う空間であり、複数の椅子が複数の列を作っている空間だった。

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*1

 

こういった感じで、長椅子と長椅子の間に、平行するようにして板が渡されていた。

この板と前列の長椅子の間に荷物を置く人もいれば、板に足を乗せてくつろぐ人も、血流が滞るのを防ぐために板から足を下ろす人もいた。姿通路から列中頃の座席を求める人は、この板の上を歩いていく。既に座っている人は、足を板に乗せてさえいなければ十分相手に譲ったことになる。座る人も、座ろうとする人も、行動に迷う余地がなく、気まずさはどこにもない。

 

私はこの椅子を見て、正直、ちょっと泣きそうになった。

道具は必ず機能を持つ。エアコンであれば空間を冷やす。ドリルであれば物を削る。

機能とは現状や潮流に力を加えて、「暑くない空間」や「物を留める穴」、といった、「ありたき姿」を実現するものだ。つまり道具は、「かくあれ」という祈りが形をとったものと言えるだろう。

そうでなくても、道具を手に取る際、人は必ず何か願いを抱いている。道具が設置される時は、他者の祈りへのいたわりが、必ずそこにある。

 

人が長時間何かに向き合うために作られた教会という空間で、人が長時間何かに向き合うにあたり、余計な迷いを持たずにすむよう、幾つもの機能を託された長椅子。私はそこに祈りを見出さずにはいられなかったし、こんなに美しいものがあるのかと、コンサートの間もずっと泣きそうな思いになっていた。

気の利いた道具を見た際に覚える感動は、きっと真摯な祈りを目の当たりにした時に覚えるそれに、近いのだろう。

 

*1:椅子図解。かわいい。